La Civiltà Cattolica

La Civiltà Cattolica
日本版
(公財)角川文化振興財団バチカンプロジェクトから刊行!
ローマで発行された最古のカトリックジャーナルが史上初、日本版で刊行されました。

La Civiltà Cattolicaについて

La Civiltà Cattolica(ラ・チビルタ・カットリカ)は、ヨーロッパの激動の時代に教皇ピオ9世の勅令によってイエズス会が開始した出版プロジェクトで、カトリック定期刊行物の中でも最古のものの一つです。

このほど、日本とバチカンの交流の歴史を明らかにしようという角川文化振興財団の「バチカンと日本100年プロジェクト」の一環として日本版を新しく創刊することにいたしました。 ローマ教皇庁の思想、政策を理解する道しるべとして、全世界のカトリック教徒から注目されているLa Civiltà Cattolicaの日本版の発行は、バチカンと日本の関係をより強固にすることは間違いありません。

記事はすべてイエズス会のメンバーによって執筆され、公開前にバチカン国務省の職員の承認を得ています。現在イタリア語、英語、フランス語、スペイン語、中国語、韓国語で発行されています。
この数多くの記事の中から、興味深いものを厳選し、2021年9月より、隔月でお届けしてまいります。

日本版発行に寄せて

LA CIVILTÀ CATTOLICA
歴史とともに歩む雑誌
In occasione del lancio dell'edizione giapponese
La Civiltà Cattolica
Una rivista che cammina con la storia

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編集長 アントニオ・スパダーロ
Antonio Spadaro S.I., direttore

1850年に創刊された「ラ・チビルタ・カットリカ」は、コミュニケーションの方法だけでなく、その意味さえも変化してきたこの数十年の時代を歩んできた雑誌です。ソーシャルネットワークや新しいデジタル技術が深く根付いた現在、コミュニケーションとは「情報を伝える」というよりも、他の見解や考えを「共有する」ことを意味しています。その結果、知的、道徳的、精神的経験を共有するようなメッセージが誌面から伝わることが大切です。
「ラ・チビルタ・カットリカ」が読者の皆さんに提供したいのは、キリスト教信仰によって明らかになった知的経験、我々の時代の文化、社会、経済、政治など生活に深く結びついている知的経験を共有することです。特に、カトリック世界だけでなく、広く世界と積極的に関わり、信頼のおける情報を得たいと望むすべての人と、知見を共有することを目指しています。その架け橋となること、すなわち教会のために世界を、世界のために教会を再解釈し、自由な会話に貢献することこそが、本誌の目指すところです。そのため、本誌の中にはオリジナルの分析や研究のみならず、読者の知性や心に語りかけ、彼らの選択を促すような見解も含まれています。

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本誌が提供する文化的見解は、創刊以来常に教皇庁の考えと一致しており、それは、1866年2月12日のピウス9世の勅令 Gravissimum supremi によって明示されている通りです。その当時から本誌は、教会、とりわけ教皇の普遍的な任務に奉仕することを目的としてきました。この「教皇や教皇庁との特別なつながり」に関して、現教皇フランシスコは、本誌の「本質的な特徴」であり、「雑誌としては唯一」のものであると述べています。(2013年6月14日、「ラ・チビルタ・カットリカ」の著者への演説において)
「ラ・チビルタ・カットリカ」の特殊性は、本誌の掲載論文がすべてイエズス会士によって書かれているという点にあります。我々の宝は、イエズス会の創始者であるイグナチオ・デ・ロヨラの精神性です。それは世界における神の存在を探究しようとする勤勉かつ好奇心に富んだ、人文主義的精神であり、まさにその精神が歴史の中で聖人や知識人、科学者や教育者を育んできました。
我々の主な課題は、「我々の時代の期待や希望、喜びを集めて表現したり、福音の光のもとで現実を解釈するための要素を提供しうる」ような対話の架け橋を作ることです。ここから芸術、科学、政治、経済、社会生活など知のすべての分野にわたる研究が生まれてくるのです。

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現在では、これまで以上に、国際性が強調されています。文化に関する雑誌も、ある特定の国によって特徴づけられることが近年はますます少なくなってきました。今日、現実を理解するためには、広く複数の視野を持つことが必要となっています。本誌に掲載される論文の著者は、すべてイエズス会士ではありますが、ここ数年は各大陸のより様々な国にわたっています。こうして、「ラ・チビルタ・カットリカ」も、より一層国際性を増してきました。
またこのことは、様々な言語の読者に対して本誌を提供する必要性も意味します。「ラ・チビルタ・カットリカ」は現在、イタリア語、英語、フランス語、スペイン語、中国語、韓国語で出版されています。このたび、日本とバチカンの交流の歴史を明らかにしようという角川文化振興財団の「バチカンと日本100年プロジェクト」の一環として、日本版を出版するという提案は私たちにとって大変喜ばしいことでした。この多言語性は、本誌のアイデンティティー自体をも変えることになるでしょう。なぜなら多言語の読者を持つことによって、他の国や文化からの要請が以前よりも一層本誌の核となるからです。世界中に派遣されている教皇庁の大使とともに各国に送られていることもまた、本誌の強い国際性を示しています。

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「ラ・チビルタ・カットリカ」はその伝統と性質から、「優れた」文化報道としての側面も有しています。テーマに対するアプローチ方法や、平易な文章表現から、特定の研究分野の専門家ではない人でもアクセスできる情報源であるように努めています。言葉やテーマ(政治から歴史、文学から心理学、映画から経済、哲学から神学、習慣から科学に至るまでなど……)に対する広いアプローチは、いまの時代に本誌がとりわけ適していることを示し ています。現代生活の複雑さや細分化は、断片化された知の全体像を理解し、再構築する努力を求めています。
「ラ・チビルタ・カットリカ」を日本の読者にゆだねる上で、私は、イエズス会が深く関わった日本におけるキリスト教の歴史、教皇庁との78年間にわたる関係、そして教皇フランシスコの日本への訪問について思いを馳せました。2019年の、まさにこの教皇の訪日の機会に、本誌の日本版の構想が生まれたのです。
私たちの雑誌の中で1851年に述べられた次の言葉は、現在にも十分あてはまるものと言えるでしょう──「著者と読者の間には、思考や友好的感情、時にはひそかな親密感ともいえる ような濃密なコミュニケーションが行き交うものです。特に一方の誠実さと、他方の信頼のもとになされる場合には、それがより強固なものになることを実感できるでしょう」

Antonio Spadaro S.I.

日本版創刊0号

イエズス会と日本の史料に表れる文化交流

Santa Sede e Giappone:
SCAMBIO CULTURALE NELLA STAMPA
GESUITA E GIAPPONESE

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デ・ルカ・レンゾ イエズス会日本管区 管区長
Renzo De Luca, Provinciale della Compagnia di Gesù in Giappone

 人間はいろいろなものと関わることによって成長します。他人、自然、神との関わりは人類に欠かせない要素であるといえるでしょう。しかし、歴史を見れば、その関わりは複雑です。自分の都合より相手の都合を受け入れる、また強いられることもあります。どの人にもまたどんな民族にも、出会いと争いの関わりがあり、それをどう受け入れるかによってその評価が著しく変わるのです。日本とローマの交流も例外ではありません。「出会わなければよかった」という人もいれば「出会えてよかった」と思う人もいるでしょう。しかし、その評価とは別に、16世紀にローマと日本の出会いがあった史実は否定できません。その出会いについて簡単に考察しましょう。
 ローマと日本の出会いを知るためには、現存する資料を基にするしかありません。屛風など視覚的なものもありますが、現代と違って、大部分は書かれた史料を読んで解釈することになります。さらに、当時文字を書くことのできる人が少なかったことも考慮する必要があるでしょう。当時の宣教師と日本の役人たちが残した史料には対立や矛盾が見られるし、それを基にして史実を再現することができないこともあるし、どう解釈すればいいかわからないこともあります。しかし、それはどんな人にもあることです。情報が少ないという限界はあるにしても、日本とローマの交流について知ることは現代の私たちにも役立ちます。その歴史を見て学ぶことができるからです。
 ローマと日本には「天正遣欧少年使節」のように互いに高く評価する交流もあれば、「迫害」という拒絶の交流もありました。どちらも否定はできません。それを基にして学べるのが歴史なのです。人間同士の関わりなので、どちらかが正しいというより、相互理解があったかどうかとしかいえません。その意味では日本とローマの交流が稀にみる極端なものだったともいえるでしょう。ザビエルたちの来日から50年近くは為政者に怪しまれるほど互いの受容が深まっていたのに対し、その後の迫害では(抵抗の形が異なったとはいえ)互いが根本から拒絶していました。しかし、その中でも、その迫害を建設的に解釈しようとした人がいました。極端ともいえる一例を紹介します。迫害の最中、キリシタンになった日本人の間に、手書きで出回ったパンフレット、『マルチリヨの心得』(1620年頃)の最後に、以下の箇所があります(略訳しています)。

死刑を行う役人やそれを決める責任者に対しての危害や罰を一切望んではならない。逆に、彼らの行いはあなたを天国に導くので、彼らが真理の道に出会うように祈りなさい。拷問を受けている間、主の受難、冠を持ってあなたを待っている聖マリア、聖人と天使たちのことを思うようにしなさい。

 徹底した平和主義、「悪に善で対応する」というキリシタンの教えであり、通常の交流ではないが、学べるところがあります。その態度はキリシタンのみならず、それ以外の日本人の行動にも表れていました。殉教の記録によれば、長崎に向かって歩いていた二十六聖人が、仏教の僧侶たちやキリシタンでない人からもてなしを受け、その他の場面でもキリシタンが尊敬される姿勢が多く見られます。
 私の解釈では、その行為の根底に「赦し」があって、初めて成り立つ交流だったということです。これは「相手が正しければ受け入れる」、「自分が納得すれば従う」といった「条件付き」では深い交流が生まれないことを物語っています。
 相手(人、文化、国)が自分と違う存在である限り、摩擦があって当然です。その摩擦を争いに展開するか、相違を認め合って互いに豊かになる方向に変えるかが交流の分かれ目といえるでしょう。相手を受け入れて初めて交流が生まれるのです。
 世界中が見舞われているコロナ禍を考えても、上述の歴史が役立ちます。新型ウイルスをなかったことにすることはできません。むしろそれを受け入れて、より豊かな生き方をすることが本来の交流でしょう。
 今回、La Civiltà Cattolica を初めて日本語で出すことは今までの長いローマと日本の交流の延長線上にあり、願わくは相互理解と受け入れを深め、より豊かな文化を育むきっかけになることを祈っています。

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ローマ・カトリック教会と日本

LA CATTOLICITÀ DELLA CHIESA ROMANA E IL GIAPPONE La Civiltà Cattolica 1942 IV pp.129-135より

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パスクアーレ・M・デリア神父
Pasquale M. d'Elia S.I.

 布教に障害が伴うことに驚く者などいないであろう。これまでも常にそうであったし、これからもそうならない理由などない。その障害とは多かれ少なかれ、布教を試みる土地の人々の文化・社会状況によるところが大きい。原始的部族ではそれほど抵抗は生じない。なぜなら、成文化された伝統を持たないために、新しい高尚なものをより容易に受け入れられるからだ。しかし、何世紀にもさかのぼり、場合によってはキリスト教が 始まる前から続く長い歴史を持った教養ある人々では、そうはいかない。まさしくそれは、インドや中国、日本の場合である。これらの国々の教養ある人々は、自分たちだけで十分であると考え、ましてや自分たちの人種や国を超えた他の考え方を得る必要性など全く感じていない。知識や真実、宗教の分野における他者の優位性を認めることは、ある意味で屈辱を感じさせる。そしてこの屈辱を受け入れるためには、精神的な力と正当な理由が必要であり、すべての人がそれを持ち合わせているわけではないからだ。
 このことは歴史的にみても、古い文化を持つ国での偉大な宣教師たちの活動が物語っている通りであり、そして現在においても言えることである。いや、むしろ特に現在において言えることなのだ。ここでは日本に焦点を絞ってみたい。

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非キリスト教徒の中で、自身の過去はもちろんのこと、それ以上に現在に誇りを感じ、そしてアジア世界に急速に進出を果たしたことで全世界の驚嘆の的となっている国民といえば、それはまさしく日本人である。長い間世界から隔離されていた日本は、独自の文化やメンタリティーを形成してきた。この国はかつて一度も外国の支配下に入ったことはなく、おそらく古代中国を除けば、自分たちの文化より優れたものを決して認めてこなかった。中国同様、日本では伝統が絶対的なものとされている。習慣や文学、家族制度、宗教、政治、社会生活のすべてが、長年の伝統に調和していなければならない。それゆえ、伝統の範疇(はんちゅう)に含まれないものに価値はなく、考慮に値しないのであり、むしろできるだけ遠くに追いやるべきものと考えられる。
 古代中国の日本文化への貢献は、文学、芸術、宗教など様々な分野でみられるが、これらすべては徹底的に日本風に修正され、同化されたことで、日本人の目にはほぼ日本固有のものとなっている。例えば、中国の仏教がインドの仏教とは根本的に異なっているのと同様に、日本の仏教は中国の仏教とは大きく異なっている。
 一方で、19世紀後半に日本が西洋文化の影響を受けたことも事実である。17世紀初頭から完全に閉ざされていた国が、その門戸を西洋文化に対して開いたのだ。そこで起こった新しい風潮は、1889年の大日本帝国憲法発布に先立つ15年間、西洋のものは、西洋のものという理由だけで無条件に受け入れるというものであった。どこにでもいる夢想家の中には、言語には英語を──これは今では恐ろしいことであるが──、宗教にはキリスト教を提案するものさえいたほどだ。しかしすぐにそれに対する反動が起こった。日本を西洋化することは、日本の本質を変えてしまうリスクを負うとして、日本人の文化や宗教的遺産を守ろうという動きが起こったのだ。そしてキリスト教、少なくともカトリックは、その教えが伝える真実と同様に厳格であり、それゆえそれ自体は同化の歩み寄りを見せるものの、完全に同化しうるものではないため、西洋化の道具として見られ、すべてのよき日本人は、それに対して自身を守る必要があると信じた。もはや250年前にしたように、町の扉や港を閉じることができないのであれば、少なくとも心の扉を閉じることにしたのだ。
 今日(1942年当時/訳者注)の日本において、キリスト教に関することでの無理解が生じているのは、日本の新聞の態度からも明らかである。新聞の記事の中に、キリスト教に敵対する記者による定型化した批判文や新しく作り出された否定的な表現を目にすることがよくある。宣教師たちは外国勢力の最前線として紹介され、キリスト教はアジア民族の古い伝統を破壊するものとみなされた。そして、カトリックを破壊しなければ、アジアの新しい秩序を形成することは不可能であると繰り返し主張されているのである。
 現在の駐日教皇使節、パオロ・マレッラ猊下は日本に対してすでに多くの貢献をされており、真のローマ(教会)の姿、すなわちローマがいかなる国においても外国勢力ではないことを理解してもらうために尽力されてきた。彼が書いた小冊子「日本におけるキリスト教徒の希望1」や、日本に適応し、「日本化」を目指す彼の努力は、ひとえに日本人にカトリックを理解してもらうためのものであり、これまでに何度も輝かしい成功を収めてきた。しかし戦争や現在の危機的状況ゆえに、真のローマ教会を理解してもらうための彼の言葉に対して、多くの日本人が耳を傾けることはなかった。もう少し先にそれが可能になるだろうか。そうではないとどうして言えよう。日本人は最初の布教者、聖フランシスコ・ザビエルに喜びを与えた民である。ザビエルは、日本人の知性と高貴な気質を称賛した。そして日本人のことはあのアレッサンドロ・ヴァリニャーノもまた深く愛し、彼らの観察に魅了されたほどである。そんな日本人が遅かれ早かれ、真のカトリック教会、ローマの姿を見ないままでいるはずはないであろう。
 それゆえ、以下の点に皆さんに注目していただきたい。

*

 すべてのものの起源である神は、神を知り、神に奉仕するために人を創造された。神を知ることと神への奉仕の点にこそ、人が最も高尚なものであり、人の持つ最大の自立性が存在するのである。創造主、神のもとにいることで、人は他のいかなるくびきからも解放される。つまり神はまさに創造主であるために、人に奉仕される権利を持つのだ。人はまず第一に神の法に従って、神に仕える。この法は、紙や岩の上ではなく、神がこの世に生み出したすべての人の体と心にはっきりと刻んだものである。この神の法によって、知識人も無教養者も、キリスト教徒も非キリスト教徒も、西洋人も東洋人も、イタリア人も日本人も、道徳的善と悪を認識し、善を行い、悪を避けるよう行動することを創造主のもとに義務付けられている。この最初の知によって、道徳的生活の主要な規則、すなわち盗んではいけない、殺してはならないといったような規則が認識されるのであり、これは学校で習うものではなく、すべての人間の正常な知性の中に義務付けられているのだ。
 しかしこの自然法に、人の創造からイエス・キリストの到来までの時間の経過の中で、神はさらに私たちが従うべき具体的な規則を加えることを望まれた。「神は、かつて預言者たちによって、多くの形で、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました2」。すなわちイエスを通じてである。つまり宗教とは、創造主、神に対する我々の義務以外の何物でもなく、宗教は神の言葉以外には意味を持たないのだ。言い換えれば、神のみが人がどのように神に奉仕し、称えるべきなのかを示す権利を持つ。人は、神が望む方法によってのみ、神に仕えるべきなのである。神は様々な時に人に示されてきた。地上の楽園で我々の祖先に対してなされた最初の啓示は、旧約聖書の時代にさらに豊かになり、そして最終的に神の子、イエス・キリストの直接の言葉によって完結する。神の最後の弟子の死をもって、神が永遠の幸福に到達するよう人に伝えることを望まれた啓示は、そのサイクルを完全に閉じ、完結するのだ。
 神が話されたこと、とりわけ、イエスが神の使者として我々の中で生き、神のもとでの生の意味を明かされたことは、他のすべてのことと同様に、実際に歴史によって証明されうる事実である。そのことは、信頼に値する同時代の証人が証言している通りだ。彼らは我々にそのことを伝え、彼らの証言を撤回したり否定したりするよりも、自身の命を犠牲にすることを望んだ。もし神が我々に話されたのであれば、神の創造物である人は彼を信じ、彼に従う義務を負っているのである。
 そして人がどのようにして神を信じ、神に従うべきかをより理解できるように、神の子、イエス・キリストは目に見える形で彼の教会を設立した。この教会はたくさんの性質、とりわけカトリックの普遍性を備えたものであり、それ自体が完全な社会である。そしてその創設者自身によって、小羊3や囲い4、家(教会5)や国6に譬えられたように、その性質が我々の感覚に直接的に理解されうるものだ。教会は何より精神的目的を遂行するためのものである。すなわち、秘跡を通じた魂の永遠の救済である。そして教会での魂の救済は、この世の危険と変遷の中で群れを確実に目的地へと導くべき司牧者の案内のもとに行われるのである。
 そのため教会は、その創設者の肉体の終焉とともに終わるものではない。いかなる時代や場所に属していようと、すべての魂を永遠の救いに導くためにつくられた教会は、救うべき魂がたとえ一つだけになったとしても存続しなければならない。「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい7」。救世主が昇天する際に与えられた最大の任務である。例外なくすべての人が神に属し、救済の箱舟であるイエス・キリストの教会に入るよう招かれている。つまり、教会はその創設者自身の意思によって、国や地域、大陸の境界線の中に限定されるべきものではない。その領域は世界全体であり、そうでなければ、もはやイエスが創設した教会ではなくなってしまうだろう。教会はどこにおいても自身の家として存在し、どの魂をも除外しない。すべての国を包括し、いかなるものの支配下に置かれることもない。国に属すと同時に、国を超えたものでもある。国 に属すのは、国の要素によって構成されているからであり、国を超えたものであるのは、その領域が世界に広がり、すべての人がそこに招かれていることは揺るぎないことだからである。すべての真のキリスト教徒は、どの国に属していようとも、教会を自身の家と感じるであろう。「そこにはもはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストはすべてであり、すべての者の内におられるのです8」。それゆえ教会はどの国においても、よそ者であるはずはない。たとえ、便宜上福音の教えは、最初は外国人によって伝えられなければいけないとしても。
 そしてこの教会は、様々な民族の持つよい面を決して破壊するものではなく、そのことはすでに教会を受け入れた民族の歴史が物語っている通りである。マレッラ猊下は次のように書いている。「真の布教者は、人間が持っているすべての真のもの、素晴らしいもの、よきものは神の恩恵であるということを確信し、配慮していた9」。教会は、真の神を人々に伝えることを目的としているのであり、彼らの中に神自身が与えた恩恵である、祖国や文化、素晴らしい風習や、政府、伝統、すなわち他と区別しうるその民族固有の文化的財産を奪い去ろうとする気など毛頭ない。教会はキリストのメッセージを伝えることでその民族の良さを縮小させることを望んでいるのではなく、むしろ彼らをさらに高め、豊かにすることを望んでいるのだ。
 さらに日本ではここ最近、カトリック教会が良心の法を侵害しないものであるならば、いかなるものをも喜んで受け入れる姿勢をとることを、実際に目にする機会が何度もあった。1935年12月8日に出された東京管区から聖職者聖省の代表に宛てられた手紙を思い出してみたい。そこには、それまで戒律を重んじる人たちにとって問題となっていた、日本の生活の中に見られるいくつかの行為を認めるための指示が書かれている。さらに特に重要な1936年5月26日付で布教聖省から出された、日本のカトリック教徒の祖国への義務に対する指示を思い出してほしい。それによって、それまで疑いがもたれていたある種の行い(神社で行われる公的祝祭や結婚式、葬式への参加など/訳者注)の正当性がはっきりと認められたのである。「宣教の教皇」としても知られる教皇ピウス11世もまた、日本の司教たちは前述のこの賢明な規則に従うことができるだけではなく、むしろ従 うべきであると述べている10
 現教皇ピウス12世は、聖座につかれるとすぐに、1939年10月20日の最初の素晴らしい回勅において、日本の儀礼に関するピウス11世の規定に対して慎重ながらもはっきりと言及し、その寛容な考えを称賛して、彼自身も前任者の足跡に従うことを約束している。彼はまず第一に「教会は、すべての民族のもっとも深い心底に起源を持つ」行為に対して配慮することを述べ、次のように宣言したのである。「宗教的過(あやま)ちに必ずしも結びつくとは言えないこれらすべての習慣は、常に好意的な検査のもと、可能とみなされれば、守られ、奨励されるであろう」と11。かつて中国人や、日本人、インド人が、キリストの名を受ける前に、洗礼を施す人物の言語や衣服、さらには名字までをも取り入れなければならなかった時代とはいまや大きく隔たっている。非キリスト教徒の民族の正当な怒りに対して無理解であった時代は、完全に消え去ったのだ。
 カトリック教会は、日本や他のどの国であれ、その国の文化的遺産の保護や発展に敵対するものではなく、むしろ全力でそれらを支援するものだ。これはまさに偉大なるヴァリニャーノの時代から常に、すべての位階の聖職者が日本人によって構成されるように日本の教会の発展が目指されてきたことが物語っている通りである。近年になって、ようやくすべての外国人司教が日本人に代わったとすれば、その理由はこれまで日本の教会に日本人聖職者を十分提供できるほどの日本人キリスト教徒がいなかったからなのだ12。今日、教会は歩を進め、教会の活動を実現しながら、日本側の要望にも歩みよりつつある。それゆえ、アジア民族の古くからの健全な文化の破壊の責任が、カトリック教会にあるとみなす非難は全く正しくないのである。
 そして、教会が今後アジアに新しい秩序を確立する際の障害となりうるとみなす恐れもまた正しくはない。教会は日本人が考えるように、ヨーロッパの新しい秩序の障害とはならないのと同様に、アジアの新しい秩序の障害にもならないであろう。歴史が我々に教えてくれているように、古い王権は滅び、新しいものが起こり、古い政治形態はなくなり、新しいものが生まれる。国の境界は取り払われ、国さえも姿を消し、ほかのものが現れる。しかしすべての国や人々の母である教会は、輪廻転生の中心にあるかのように、廃墟の中でも崩れることなく立ち続ける。そしてまさしくこのことが、その永遠の若さを生み出すのである。不動でありながらも、人間の生活の様々な状況に順応するために、可鍛性を持つのだ。約40年前、1905年6月11日に、教皇ピウス10世は「時代の流れとともに、社会や公共生活の中に忍び込む急激な変化」や、「変化する状況が常に引き起こす新しい必要性」に関して暗示し、次のように指摘していた。「教会は長い歴史の中で、社会の変わりゆく状況に適応 する素晴らしい力を持っていることを常に示してきた。信仰と道徳の一体性や不変性、そして神聖なるその法以外においては、教会は時代の流れや社会の新しい必要に付随するすべてのことに対して従い、適応する。聖パウロの言葉にあるように『信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となる13』のだ14」。このことは、カトリック教会を知らないがゆえに、それを将来の世界にもたらされるであろう秩序を脅かすものとみなすすべての者によってよく考慮されるべきである。

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 今から25年ほど前、中国の司教であったあるフランス人の宣教師は、1917─18年に起きた洪水の被災者たちに、彼が与えられるものすべてを与え、彼らのために物乞いをし、さらには自身の冬用の毛皮さえも脱ぎ捨て、支援団体に提供した。この彼の意義ある行為は、中国全土を驚かせ、感化した。皆が競って寄付を行い、その有名な毛皮は買い戻され、それだけで被災者のための1万銀両をもたらしたという。そこで政府は、この偉大な司教に勲章を与えようとした。政府から司教に正式に勲章を与える命を受けた中国の高官は、その数年前までは、カトリックに敵対し、カトリック教会が自身の国にとって危険であり、すべてのキリスト教徒を中国にとっての裏切り者とみなしていた人物であった。しかし彼は宣教師たちのことを学び、キリスト教徒にこそならなかったものの、その考えを改めた。1919年3月23日に司教に勲章を与えた際の演説にて、彼は次のように述べている。「過去の過ちから我に返り、良心の呵責(かしゃく)を和やわらげるため、皆さんに次のように言いたいと思います。私は誤解していました。カトリック教徒であると同時によき中国人であることが可能であるだけでなく、中国や、世界中のカトリック教会はまさに純粋なる愛国主義の基礎であり、愛国主義が必要とするすべての犠牲の源なのです。なぜなら宗教的信仰なくして、─そして私はまず第一にカトリックをあげたいと思いますが─犠牲に至るまでの真の愛や無欲は存在しない、もしくは存在するのは極めて難しいのです。カトリック教徒の皆さんに、私は祖国を愛し、真の愛国主義者として活動することをお願いしたいと思います。あなた方があなた方の信仰を愛国心とともに称賛されるように、あなた方の信仰自体が─私はそのことを確信しておりますが―、私たちの祖国を称賛し、そして中国を活発な素晴らしいものとするでしょう。
忘れないでください。救いはあなた方からのみ訪れるのであり、我々は我らが祖国のために、あなた方を頼りにしているのです15
 鉄血宰相と呼ばれたビスマルクを、カトリック教会への党派性で非難するものはいないだろう。彼は15年間教皇と「文化闘争」を繰り広げたが、この戦いは最終的にカトリック教徒の勝利によって、両者の和解のもとに解決した。頑強だが誠実なビスマルク自身も、この和解を求め、最終的に彼は「文化」にとっての真の敵はカトリック教徒や教皇、ローマ(教会)ではないと理解した。外交官であった教皇レオ13世は、彼に堅固な友好関係を示したのだ。ビスマルクの反対勢力の中には当時プロテスタント議員のリヒナーが頭角を現しており、彼はビスマルクが外国人と協定を結んだことを非難した。1887年4月21日、ビスマルクはその彼に議会で次のように答えている。「リヒナーは教皇のことを我々ドイツ人に対する外国人と呼べるだろうか? この言葉は一プロテスタント教徒としては使えるかもしれないが、その場合、彼は彼のカトリックの支持者たちの忠実な委任者ではなくなる。私がもしカトリック教徒ならば、教皇庁を外国組織とは考えないであろう。政府の代表として、私は中立でなければならない。それゆえ、私は教皇庁を外国組織ではなく、普遍的な組織とみなし、それゆえ、ドイツ組織でもあると言わなければいけないだろう。実際に教皇庁は普遍的存在であり、そしてそのようにドイツのカトリック教徒たちによって考えられているのだから」。プロテスタントの政治家の口からとはいえ、素晴らしい言葉である。そして我々は、この最後のフレーズを日本に当てはめて次のように言いたい。カトリック教会と教皇庁は本質的に一つの組織であり、それは国境によって制限されることなく、国を超えた存在である。まさに国を超えた存在であるがゆえに、すべての国に属し、それゆえ日本にも属すのであり、その意味においては日本のものでもあるのだ。
 だからこそ、我々は日本が教皇庁に外交官を派遣したことを喜ばしいこととして祝いたい。この事実は、この高貴な国日本とローマ教会の相互理解のもとでの良好な関係を構築することに、大いに貢献するであろう。

1 La Civiltà Cattolica, 1939, III, pp. 440-446参照。
2 ヘブライ人への手紙, I, 1-2.
3 ヨハネによる福音書, XXI, 15-17.
4 ヨハネによる福音書, X, 16.
5 マタイによる福音書, XVI, 18.
6 マタイによる福音書, XIII, 1-52.
7 マタイによる福音書, XXVIII, 19.
8 コロサイの信徒への手紙, III, 11.
9 Marella, Speranza di cristiani in Giappone, p. 38参照。
10 La Civiltà Cattolica, 1939, III, p. 441参照。
11 Acta Apost. Sed., 1939, p. 464参照。
12 1938-1939にかけての最新の統計によると、日本の約8000万人の住民のうち、カトリック教徒はほんの 11万7760人であり、そのうちの半数以上、正確には5万9260人が長崎司教区に属している。
13 テモテへの手紙一, IV, 8.
14 Acta Sanct. Sed., XXXVII, p. 7749参照。
15 La Civiltà Cattolica, 1919, IV, pp. 188-191参照。
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ジュスト高山右近
16世紀の日本人宣教師

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Toni Witwer S.I.
トニー・ウィットワー神父

代表的なキリシタン大名として知られる
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、
高山右近の一生に迫ります。
La Civiltà Cattolica 2017 I, pp.175-184より

 ジュスト高山右近の死から400年がたった。日本では、殉教者としてだけでなく、イエズス会の宣教師たちとの交流のもとに実践されたキリスト教信仰の証人としても、崇敬されている人物である。彼は日本人特有の頑強さと厳格さ、忠誠心をもってキリスト教信仰に生き、最終的には追放地で死を迎えるという自らの生き方をもって、キリスト教文化を促進させた。
まさに最も偉大な16世紀の日本人宣教師である。すでに彼の死の時点から、彼は聖人の様に扱われていたという1

基盤:日本に告げられた信仰

 右近の信仰の発展とその特徴を理解するために、どのようにキリスト教が日本に到来し、日本人にどのように受け入れられたのかを振り返ってみよう。
 1549年4月、フランシスコ・ザビエルはインドから日本に向けて旅立った。彼とともに、2人のイエズス会士と3人の日本人改宗者がいた。彼らは、ゴアのイエズス会のコレジオで学んだ者たちだった。キリスト教の教えを得た彼らは、洗礼を受けることを望み、真剣に霊操に取り組むと、この神の教えを他の者たちに伝える道を求めた2。彼らとともにフランシスコ・ザビエルは日本での布教活動を始め、その地に1551年11月16日までとどまった3
 1549年8月15日に日本に到着したザビエルは、日本の民が福音の教えを望んでいることに気づき4、現地の風習や習慣に触れるにつれて、日本人の示す高い道徳心や精神力に対する評価をますます高めていった。そしてこの日本人の性質が、キリスト教信仰を受け入れる際に決定的な役割を果たすこととなった5
 日本人は本質的に、他者の前で自分自身の尊厳が保たれることを重要視する傾向がある。そのため、個人が一つの価値観にこだわることなく、物事を客観視できるうえ、苦行や厳格な生活をも苦にしなかった。このことが良き社会秩序や相互の敬意を保証していたのである。それゆえ、日本人の人間関係は安定したものであり、畏敬の念に満ちた、非常に深い忠誠心によって支えられていた。
 ザビエルの時代は、公家や武士(右近が属していた社会階層)に対する深い敬意が「主君」への無条件の奉仕と忠誠を促した。
自身の面目を保つためには、日本人は自らの命を捧げることさえ厭わなかった6。そのため福音の道に進み、イエス・キリストを彼らの真の主として全面的に奉仕すると決めることは、それまでの日常生活において彼らが従属していた「主君」との関係に深刻な緊張感と誤解をもたらすことになった。
 さらに、磔による迫害に対する日本のキリスト教徒の態度を決定づけることとなったもう一つの要素にも言及するべきであろう。主の受難と十字架は、フランシスコ・ザビエルにとって、彼自身がパリにて聖イグナチオ・デ・ロヨラのもとで行った霊操の時から非常に重要な要素であったが、宣教の経験の中でさらに大きな意味を持つようになっていった。彼自身は暴力的な死を迎えることはなかったとはいえ、他の者たちが非道な扱いを受けていることを目にしなければならず、彼らを助けることができなかったことで、内面において殉教に苦しむことになった。彼は常にこの痛みを、深い傷として抱えていたのである7
 フランシスコ・ザビエルは、彼自身がゴアにて同僚に書いているように8、インドから「殉教の希望」を胸に旅立ち、この希望は右近の中にも強く存在していた。福音を伝える上での殉教の重要性を強く確信していたザビエルは、十字架の上のイエス・キリストに従う行動であるとして熱狂的に殉教について語っており、そのことは、1549年2月2日にシモン・ロドリゲスに宛てられた手紙の中でも強調されている9
 つまり、霊操を行い、十字架のキリストに従いたいという強い思いを抱えたイエズス会士たちの説教や、福音を受け入れた日本人自身の精神が、神の受難の中に、キリスト教信仰の神髄を見出すことに貢献したのである。

右近の信仰の「すばらしい恩恵」

 迫害に対するジュスト高山右近の態度は、彼の人生を方向づけた信仰や価値観を彼がどのように理解していたのかを考慮することなくしては、正確に理解することはできない。1563年、少年期に右近は洗礼によってキリスト教徒になったが、いまだ真のキリスト教徒にはほど遠い状態であった。真のキリスト教信仰の教えを受けることなく、彼は両親の例にならい、当時のメンタリティーの中に生きていた。つまり強い者が支配するという武士の精神の中にいたのである。その精神のもと、1573年に彼は和田惟長と戦い、和田は1週間後にその時のけががもとで帰らぬ人となった。この戦いで右近も傷を負ったが、これが彼の人生の転換点となり、彼に生の意味を考えさせるきっかけとなった。
 右近はフランシスコ・カブラル神父が1574年に高槻で行ったキリスト教教義の講義に深く魅了され、福音の教えを得た。そして、全人類の救いのための主の犠牲を理解し、深く改心することとなった。この最初の改心によって彼はイエス・キリストの教えを告げる宣教師、日本における布教活動の偉大な促進者の一人となったのである
 彼の信仰は彼の直接の主君であった荒木村重が、もう一人の主君、織田信長に対して謀反を起こした際に試されることとなった。右近は二人の主君のどちらにつくべきかを選ばねばならないジレンマにさらされた。荒木に対する忠誠を示すために、彼は人質として妹と長男を差し出したが、一方で織田は高槻城を明け渡さなければ、教会を破壊し、宣教師を十字架刑に処すと脅した。右近は祈りに専念し、武士としては考えられない行動に出た。戦いに身を投じるのではなく、被害を最小限に食い止め、平和的な方法での解決を模索したのだ。織田のもとに武具を着けずに現れた右近は、自身を守ることを放棄し、自身の身の行く末を完全に神にゆだねたのである10
 ジレンマを感じたり、自身の無力さを自覚することで、彼の中で神に対する信頼がさらに強くなり、自身の地位や名誉、さらにはその命さえも放棄する準備がますます整っていった。彼は英雄として死を迎えるまで戦うことに慣れていた男から、自身を他者のために投げ出し、イエス・キリストの例にならって人を愛することができる男へと変わっていったのだ。
 この2度目の改心によって、ジュスト高山右近は言葉や、外的振る舞いだけでなく、その生き方によっても人々を説得しうる宣教師となったのである。こうしてまさに12歳で洗礼を受けた際に付けられた「ジュスト(正義、正しい人)」の名にふさわしい人物となったのだ。その証拠に、異教徒たちはキリスト教のことを「高山の教え」と呼んでいた。

愛の崇高な試練としての迫害

 1587年6月に関白豊臣秀吉による迫害が始まった。秀吉は、一晩のうちに突如として右近の改易を決定した。右近はいまだ内面において武士であることを感じていたがゆえに、自身の意思や能力、人としての力に執着していたとはいえ、この状況で彼の信仰はいかんなく発揮された。
 領地からの追放が命じられたのち、役人の前に現れた彼の振る舞いは、彼の自信を表していた。その態度のせいで、彼の友人の中には、彼を心配し、秀吉に返答する際には断固とした態度をとらないよう勧める者もいた。右近は彼らに対して、神の決めたことには従うのみであると答えたという。
 右近の信仰への思いは、秀吉にキリスト教徒であることを一切放棄しないことを告げ、そして自分がイエス・キリストの愛のために殉教者として死ぬ覚悟ができていることを感じさせたのである。彼は信仰のために自らの命を差し出す覚悟があることを、髪を剃ることで示した。これは日本では内面の悲しみを表す行為であり、弔いや追放の際に行われるものであった(原文ママ/訳者注)。
 右近の臣下たちもまた、彼が追放となった際には、彼と運命をともにする覚悟があることを申し出た。このことは、彼にとって秀吉をはじめとする迫害者に対して断固立ち向かうための慰めとなった。神はまさに、彼の殉教に対する熱望を燃え上がらせ、彼に社会的身分や財産を失った放浪の身を受け入れさせることで、右近の殉教の準備を整えたのである。
 当時の迫害に対する右近の態度をより理解するためには、もう一つの要素も考慮しなければいけない。それは愛と団結に対する感謝の気持ちである。もちろん彼の感謝は真のものであり、彼はすでにキリスト教徒の連帯や信仰の慰めの必要を感じていた。しかしながら、彼はまだ真の意味ではこの必要を認め、告白することができる段階ではなかった。彼はいまだ、他者に頼らず、自身の力のみを信頼する態度に固執していた。隣人を助けようとはしていたが、いまだ自分自身を助けてもらうことを学ぶ必要があったのだ。自身の無力さ、自身の困難を経験することなくして、彼の中に神に対する真の信頼が育つことは難しかった。
 秀吉の命により追放の身となった後、右近は社会的地位と財産を失い、小豆島に隠れながら貧しく簡素な生活を強いられることを受け入れた。この劇的な状況においても、彼は周りの者を励まし、彼らがイエス・キリストの信仰にとどまるよう鼓舞し続けた11
 追放が言い渡され、右近が世を捨てる決心をしたことは、彼の他者との関係をも変えた。彼は神を信頼し、神に助けを求める「巡礼者」であり、かつて彼の臣下であった者たちの「仲間」となったのだ。極貧の経験は、いかに神や他の人から多くのものを受け取っていたのかを彼に理解させ、彼の中に感謝の気持ちが膨らんでいった。最初の迫害の時代に学んだことは、彼が権利を取り戻した後も彼の態度を決定することとなった12。彼は人からの援助を受け入れ、他の者に奉仕するために、進んで施しを受け入れるようになった13
 イエズス会の神父たちとの付き合いや、彼らと多くの人をキリスト教に改宗させる活動をともに進めることは、彼の信仰に対する知識と経験をさらに深めた14。実際、彼は秀吉がイエズス会の神父の殺害を命じたことを知ると、その知らせを、自身の殉教をもたらすものであるかのように、神が彼に与えた恩恵 として受け止めた15
 しかしこの当時の右近はいまだ「積極的(自発的)殉教」を夢見ていた。彼は英雄としての死、イエス・キリストの死を模した十字架での死を求めていたのだ。もちろん彼は自身の命を捧げることを望んでいたが、この時はまだ、彼がより確固たる形で自身を放棄することが求められるなどとは思いもしていなかったのである。

恩恵としての殉教

 1614年の徳川幕府による祖国からの追放と、マニラでの困難な生活は、右近にとって恩恵であった。なぜなら彼の信仰を深め、十字架のキリストの証人として成長させることに貢献したからである。多くの苦しみや困難にもかかわらず、彼にとってこの晩年の時期は、彼が日本のキリスト教徒から崇拝され、ヨハネス・ラウレス神父が定義したところの、「真の殉教者」となる上で決定的なものであった16
 右近の精神の成長の過程を記述したペドロ・モレホン神父は、彼が直面した3つの信仰の試練について語っている。他者に自身の命を捧げる確固たる決心は、荒木が織田信長に対して反旗を翻したときのいわゆる「最初の信仰の試練」において既に存在していた。モレホンは右近がその当時「無実の者の代わりに死にに来た」と断言し、信長が彼を呼んだ際、右近は彼に対して、自分は彼に仕えるために来たのではなく、イエズス会の神父とともに死ぬか、もしくは追放刑になるために来たのだと答えたことに言及している。その時すでに、神は他者のために自身の命を捧げる覚悟を彼の中に高める試練を与えていたのである。
 秀吉が追放を命じた際──そしてこれが「信仰の第二の試練」であるが──、右近はそれを喜んで受け入れ、霊操と告解によって殉教者となる準備をするためにイエズス会神父を求めた。神は再び、右近が26年の追放生活において「福音の種」となるよう準備したのだ。
 イエス・キリストに人生を捧げる意思は、彼のキリスト教徒の友人の内藤ジョアンやその息子トメの中にも強くあった。追放や放浪は殉教である。それは単にモレホン神父が断言しているように「長い殉教」の形であるだけでなく、十字架にかけようとする刑吏の手の中に無防備の状態で自身を捧げたキリストの無力さをより深く感じさせるからである。追放によって、神は右近が自身の命を捧げたいと思うその願いをかなえたのである。しかしそれは彼が想像していた形とは異なっていた。
 追放と放浪によって─そしてこれが「信仰の第三の試練」であるが─、神による右近の信仰の形成は完成される。彼は生も死も自身の手の中にあるのではなく、神のもとにあり、完全に神にゆだねなければならないということを自覚するに至るのだ。
 マニラに向けて出発するまでの9カ月の間、右近は暴力的な死による殉教への希望を持ち続けていた。彼は日本を発つ前に殺されることを確信し、冷静に死を待っていた。彼は主君に従う心構えはあったが、しかしキリスト教に関わることでは従うことはできなかった。マニラまでの航海と追放生活は、神が彼に、積極的に殉教を求めることと、死へとゆっくりと進む状況へと身を完全に捧げることとの違いを理解させる時間であった。右近は、神は彼にその人生を捧げることを望まれているが、それは瞬間的な死という形ではなく、追放という「長い殉教」の形であることを理解したのである17
 マカオではなく、マニラにイエズス会の宣教師とともに行くことを決心したことは、右近が彼らに対して敬意を持っているだけではなく、彼らによる精神的な指導を必要としていることを表していた。彼は頻繁にイエズス会の教えが勧める霊操や瞑想を行うことを求めた。
 右近の謙虚さは、マニラに到達したのち、彼が歓待を受けた際にも表れている。彼はキリスト教徒として敬意を払われたことに感謝しながらも、その一方で、それに自分が値しないがゆえに重荷に感じていることを語っている。
 その謙虚さから、右近はすべてのことが個人的な功績によるものではなく、神によって与えられた恩寵として理解していた。彼の人生の最後まで、彼は神の愛のためにその人生を捧げることを望んでいた。彼はキリストの殉教者となることを望んでいたのであり、そして実際にそうなったのである。
 右近はイエスの名を唱え、最初の殉教者、聖ステファヌスのように、主に彼の魂を捧げながらその生涯を閉じた。ヴァレリオ・デ・レデスマ神父は次のように書いている。「イエスとマリアの尊き名前を口で、そして心で数回祈りながら、彼はその魂を主にゆだねた。彼は63歳で、50年前にキリスト教徒となったのであり、一度奉じた信仰に、少しも動揺することはなかった。もし何か変化があったとすれば、それは良いものがより良いものになる変化であり、日々常に彼は神への愛と、その聖なる教えを明らかにするために命を捧げたいという思いを募らせていた」。

現在の教会や社会にとってのとりなしとしての右近

 右近は、当初は「規則」としてキリスト教信仰に生きていたとしても──つまり何か日本の文化や伝統に反するものとなりうるものとして──、すぐにキリスト教は真の愛にあるのだと理解した。神の道具となるために、キリストの愛による自身の変化を受け入れることこそ、キリスト教徒の使命である18
 キリスト教信仰は、愛と同様にいかなる文化にも反することはなく、むしろすべての文化を発展させ、完成させることができることを右近は示した。キリスト教がある文化と反目するのは、その文化が自身を絶対化したり、世俗の権力が神にかわりうると主張するときだけである。右近はすべてが最高権威として神に従うべきであると確信し、それによって、自身の主君に対する忠誠心を示しながらも、同時に内面においては自由でいられると確信していた。
 1614年の迫害は全面的なものであり、すべてのキリスト教徒に及んだ。それから逃れる唯一の手段は、キリスト教信仰を捨てることであった。日本に誕生しつつあったキリスト教の教会の第一線にいたために、右近は1587年から特に迫害の対象となった。彼が示した堅固な信仰は、迫害者にとっては挑戦であり、それゆえに多くの者が何としても彼に信仰を捨てさせようとますます執拗な試みを行った。
 追放地マニラでの右近の死は、一見すると自然死のように見え、彼の「殉教者」としての評価に疑問をもたらすかもしれない。しかし、追放や、神の僕しもべがさらされた困難、そして彼を徐々に弱らせた困窮状態をより深く理解すれば、彼の死は紛れもなく迫害によってもたらされた苦悩と困難によるものであることがわかる。実際、現存するすべての資料が、追放期間に彼が耐えなければならなかった困難によってその死がもたらされたことを裏付けているのである。
 そしてまた、彼の追放や死について語る古い資料以上に、右近が初めから、単に聖人として尊敬されていただけではなく、キリスト教信仰を決して否定することなく、イエス・キリストのためにその命を捧げた殉教者としても崇敬されてきたという事実がそれを物語っている。
 彼の信仰の証あかしは昔も今も明らかであり、彼の生涯が多くの人を福音の道に導いてきたように、彼の殉教の血もまた「キリスト教徒の種」であり続けるであろう。

1 «Relación de Valerio de Ledesma》, in F. Navas Del Valle, Catálogo de los Documentos relativos a las Islas Filipinas existentes en el Archivo de Indias de Sevilla, vol. VI, Barcelona, Compañia General de Tabacos de Filipinas, 1930参照。
2 Monumenta Xaveriana, vol. I, Madrid, 1899-1900, 531, n. 1; 537, n. 2; 544, n. 2参照。
3 Epistolae S. Francisci Xaverii, vol. II, Roma, 1996, 239, n. 1参照。
4 Monumenta Xaveriana, vol. I, 546, n. 7 (1549年6月22日); Epistolae S. Francisci Xaverii, vol. II, cit.,
148, n. 7( 同じ手紙のポルトガル語の本文); 146-147, n. 5参照。
5 Monumenta Xaveriana, vol. I, 579, nn. 12-13( 1549年11月5日)参照。
6 Ivi, vol. I, 579-580, n. 14( 1549年11月5日)参照。
7 Ivi, vol. I, 316-317, n. 2( 1544年3月27日)参照。
8 Ivi, vol. I, 415-416, n. 2( 1546年5月10日)参照。
9 Epistolae S. Francisci Xaverii, vol. II, 78, nn. 18-19参照。
10 «Relazione del p. Pedro Morejon sulla vita di Justus Takayama Ukon», in Jap. Sin. 46, ff. 365-374
(Archivum Historicum Societatis Iesu)参照。
11 «Litterae P. Organtino》( 1587年11月25日), in Cartas que os Padres e Irmãos de Companhia de Iesus escreverão dos Reynos de Iapão & China, Evora, 1598, vol. II, 225v-231v参照。
12 «Litterae P. Luis Frois》 (1590年10月12日), in Jap. Sin. 50, ff. 97r-130v (Archivum Romanum Societatis Iesu)参照。
13 «Litterae P. Luis Frois》 (1592年10月1日) in ivi, 51, ff. 303r-370v (Archivum Romanum Societatis Iesu)参照。
14 «Litterae P. Pedro Gomez》 (1594年3月13日), in ivi, 52, ff. 1r-40v (Archivum Romanum Societatis Iesu)参照。
15 L. Frois, «Relación del Martirio de los 26 Santos Mártires》, in Jap. Sin. 53, ff. 31v-32参照。
16 J. Laures, «Justus Takayama Ukon erat verus Martyr》, in Missionary Bulletin IV, Tokyo, 1952参照。
17 «Relatio P. Valerii Ledesma», in Philipp. 6-I, ff. 58v-59v( Archivum Romanum Societatis Iesu)参照。
18 Ignazio di Loyola, S., Esercizi spirituali, nn. 230-237参照。

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